「mixi疲れ」を心理学から考える

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私もmixiをやってて、ずいぶん前だけどmixiで日記を書くことの意識みたいのを友人と話したことがある。その友人は「コメントが欲しい」と語ってた。そのためにやっている、と。私はその考え方を否定はしないけど理解はできない。公開する以上誰かに見てもらいたい、知ってもらいたいという意識は同じかもしれないが、私はコメントはあってもなくてもいいと思っている。つまり、一方通行の垂れ流し。SNSをやってる限り、交流したくないわけではない。むしろ関わりあいたいという意識はすごく大きい。でもなぜ、コメントを必要としてないか。それは「知ってほしい」という考え方がちょっと違うからだと思う。「友人まで公開」にしてるから、自分の認めた人しか自分の日記を読まない。私にとって日記とは、友人達と理解を深めたいわけじゃない。そんなのは会って話して深めればいい。文字だけで何が伝わるというんだろう、というのが私なりの考え方で、同じようにメールやメッセンジャーのようなチャットで細かい話はしたくない。文字には表情がない、感情がない、いくら絵文字や顔文字を駆使したところで、誤解はかならず生じる。日記とは、こんなことあったよ、という報告ツールにすぎないと思う。そして実際に会ったときにだいたいお互いなにしてたかは把握できるから、それを元に理解を深めればいいのではないかしら。近況報告にコメントはいらない。もちろん書き込んでくれれば嬉しいし、自分も共感できたり、意見を求められたりしたらコメントをつけたりするけども、あくまで補助的なもので、絶対ではない。見てもらってる、知ってもらってる、というのは足跡をたまに確認すればいいだけのことで、ここまでコメントを欲するのはどうだろうな、と思う。それに幾分ひねくれてはいるけども、みんながこぞってコメントをつけてくれるほど、自分が思ってるほど、相手は自分のことには注目してないだろうな、という意識が根本にあったりもする。自分が誰かの日記を流し読みしてしまうのと同じように、自分の日記も同じような扱いになってることだって十分にありうる。自分は自分、人は人、愛情も友情も、押し売りも良くないしダダっ子のようにねだるものでもない。見ている人は見ていてくれるし、分かってくれる人は分かってくれてる。判断を全て相手に委ねて聞いてほしいことや、知ってほしいことを自由に書けばいいんじゃないかしら。まあ、私がそう思ってるだけなんで、コメント欲しい派は多数派みたいですけど。私は、目を通してもらえればそれで満足です。それ以上になにがいるんでしょうか。所詮二次元、「交流」の補助的役割であるということ忘れてそれが全てになってしまったら、破綻するでしょうね。相手に求めすぎればがっかりするのは自分なんで、私の日記はいつも一人語りの自己完結です。なんか自然にそうなった。実際コメントもあんまりつかない。まあ、コメントつけにくい内容なんですかね。どっちでもいいけど。
長々と生意気語りましてどうもすいません。