軍艦島

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軍艦島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%B3%B6
以下引用抜粋

軍艦島(ぐんかんじま)とは長崎県長崎市(旧高島町)にある島、端島(はしま)の通称である。
・石炭採掘のため周囲を埋め立て、また鉄筋コンクリート造の集合住宅群を建設した。海上から見たそのシルエットが、日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島と呼ばれてきた。実際、戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだというエピソードもある。
・人口が最盛期を迎えた1960年には5,267人の人口がおり、人口密度は東京特別区部の9倍以上に達した。炭鉱施設のほか、住宅・学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。
・1960年以降は主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月末までに全て島を離れ、無人島となった。

特に廃墟好きってわけでもないのだけど、なんだかこの無人島は普通の無人島のイメージとも廃墟のイメージとも違って高層マンションがぎっちり建ってるからただならぬ気配を感じてなんとなく気になってたのだけど、ちゃんと調べてみるとやはりただならぬ代物だった。
大正5年に鉄筋コンクリートの高層マンション(地上7階建)が建ったというのも驚きだし、第二次世界大戦中も建設が続けられたのも驚きだし、各棟の廊下が複雑につながり、通路として使われており「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたというから、昔の話というよりものすごく文明の栄えた未来的な印象を受ける。手塚治虫とかの漫画に出てきそう。実際高層マンションをはじめ様々な施設が時代の最先端だったようだ。
面積約6.3ha、海岸線全長約1,200m、東西の長さ約160m、南北の長さ約480m。こんな狭い場所によくこれだけ詰め込んだもんだと、なるほど圧巻なわけだ。

そんな軍艦島も設備だけを見ると常に最先端を行く華やかな時代を彩ってきたように思えるが、「炭鉱」「第二次世界大戦」からイメージするように暗く陰惨な背景もあわせ持っているようだ。
軍艦島特集:端島その後の20年
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0101/gunkan/sakata/s01.html
以下引用抜粋

端島の「空白」はしかし、意図的に覆われた空白だった。
 91年10月、次いで92年6月、一団の韓国人が端島の土を踏んだ。強制連行などでこの島で働かされ、死亡した朝鮮人労務者の遺族たちである。廃虚の凄絶に息をのみ、島の土をたたいて泣いた。
 さらに閉山20年を目の前にした93年12月、ソウルのテレビマンらが端島の取材に訪れた。端島にとって、これら半島の人々を迎えたのは、閉山後はもちろん終戦以来、初めてのことだ。
 92年に訪れた遺族5人は、いまだ手にすることのない、彼らの肉親の遺骨の返還、そして死亡状況を知りたいという、ささやか過ぎる求めを胸にしていたが、ともに成果はなかった。
 彼ら遺族の父や祖父たちは、どのようにしてこの孤島にやって来、どのように働き、どのような死を迎えたのだろうか。
 記録された端島の歴史、あるいは戦後日本の公式の記録から、その事実を知ることは不可能なことだ。
 原爆による長崎、広島市民の死亡者、つまり自国民の死についてさえ、日本政府は永く不誠実であり、不完全な調査しか行っていない。他国の人々に、どうして光を当てようとするだろう。
 端島の空白が突然はがされたのは、終戦から40年の歳月を経た86年8月のことだ。
 牧師で元長崎市議の岡正治氏が代表を務める「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」によって、大量の資料が発見された。
 それは、1925年から1945年までの20年間、端島で死亡した日本人、朝鮮人、中国人の死亡診断書、火葬認許証下附申請書である。死亡は朝鮮人122人、中国人15人。(死亡者には炭鉱労務者などの成人だけでなく、乳幼児、死産の胎児も含まれる)
 端島などで朝鮮人、中国人が働かされていたことは知られていたが、この資料は、その暗部を白日にさらした。
・強制連行、酷使・虐待、死亡、ある者は原爆被爆、さらに被爆後の差別。戦後日本は何重もの不実を朝鮮人、中国人の上に積み重ねている。端島はその舞台の一つだ。
朝鮮人122人、中国人15人の死を突き止め、さらにそれの持つ意味を解き明かしたのは、岡氏らの執念である。
・65年から長崎県内の朝鮮人被爆者の実態調査を始め、81年から82年、82年から83年、87年から91年の都合3回、会員と共に「靴をすり切らせた」調査を行った。その結果、終戦直前、1943年の時点で坑内労働者などとして端島にいた朝鮮人は500人、中国人は240人という事実が明らかになった。
・調査は、日本人と比較し彼らの死亡率が次第に高まり、終戦直前つまり「総力戦」期を迎えると共に朝鮮人、中国人の死亡率が日本人を上回っていること、 朝鮮人は窒息、圧死など事故死が極めて多いこと(63人)、虐待によると思われる死因や、島を逃れようとして力尽きたとみられる溺死(4人)が含まれていることなどを明らかにしている。


明治初期には近世の佐賀藩主鍋島氏が所有し、1890年から三菱財閥が所有。島に住み炭鉱で働く住人は電気、水道は会社の補助で好きなだけ使い、最新式の電器製品を買いそろえたという豊かな暮らしぶり。ガスが充満する地下600mでの作業や人力に頼る採炭など労働条件は極めて悪かったが給料は破格だったという。映画館に商店街に学校や飲食店、バーなどといった施設も備えられ、何不自由のない楽園かと思われるが、深刻な水不足に悩まされてはいたようだ。風呂は海水が主に使われ、生活用水と上がり湯は真水が使われた。それを差し引いても当時にしてみれば格段に豊かな生活だったと言えるのではないだろうか。それを思うと、軍艦島はまさに光と影をはっきりと浮き立たせる象徴ではないだろうか。当時の端島を生きた人たちの証言にも軍艦島から得る印象に温度差がはっきりとあらわれている。
軍艦島特集:たたずむ「時代の証人」
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0101/gunkan/kaze/k01.html
以下引用

それぞれの軍艦島
【稀有の遺産】 大正5年に建てられたわが国初の鉄筋コンクリートのアパートをはじめ、島は各時代のトップ技術の集合体。日本建築史上貴重な文化財であり巨大な野外博物館。日本近代化の歴史を考えさせるモニュメントとして、このまま残すべきだ=建築学専攻の阿久井喜孝・東京電機大教授(63)
【予定なし】 島の資産を管理している。コンサルティング会社から「島をレジャー島に」などといった趣旨の問い合わせもあるが、現状では採算が合うプランもなく、企業として島をどうこうする予定は全くない=三菱マテリアル九州支店
【国内炭はコスト高】 90年代は石炭鉱業の構造調整の最終段階。国内炭は海外炭に比べ、あまりにコスト高。これからは役割に応じ、さらに段階的に縮小していく=資源エネルギー庁石炭部炭業課
【強制連行と被爆】 韓国・慶尚南道から14歳の時に強制連行された。1人1畳もない狭い部屋に数人ずつ詰め込まれ、有無を言わせず働かされた。リンチも受けた。何度も海に飛び込んで死のうと思った。5カ月で三菱の造船所に配転になったが被爆。今も肺が悪い=徐正雨さん(65)
【冷静な撤退】 端島礦の採掘可能な石炭は掘り尽くされた。閉山は企業としては非常に冷静な撤退。三池炭鉱の経営を続ける三井グループとは対照的=経営史専攻の小林正彬・関東学院大教授(62)
【いいポイント】 昭和45年ごろから瀬渡しをしている。年間1500人ぐらいの釣り人を渡す。軍艦島はいいポイント。今の季節ならクロ、ヒラス=瀬渡し業の馬場九十九さん(62)

現在、島への上陸は禁止されている。

参考
軍艦島特集
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0101/gunkan/gunkan.html
端島(軍艦島)端島っ子クラブ
http://www.little-snow.com/hasima-top.html
YouTube 懐かしいCM「AC 軍艦島
http://www.youtube.com/watch?v=FIvGWR3QcfE&search=%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%B3%B6